ミネギシマサハル
■ プロフィール

東京葛飾の生まれ、育ちは池袋。
1975年 神田「美学校」小杉武久音楽教場に参加。
主に電子音具の制作にいそしむ毎日を過ごしておりました。

「小杉武久音楽教場」に入るきっかけはアルバイト先で知り合ったOさんの奨めだったかな。それとも別のアルバイト先のTさんからだったのか。よく覚えていません。
覚えていないと言えば、教場が始まる3ヶ月ほど前(1月の半ばくらいだったか?)中野にある能楽堂で、「マノダルマ」というタイトルの小杉のソロコンサートがありました。このコンサートの情報をどうやって知ったのかも全く不明です。教場の告知とセットになっていたのかも知れません。かように、実に様々なことが記憶から脱落しているのですが、このコンサートそのものは今でも不思議と良く覚えているのです。

小杉がまだ登場していない暗い舞台には香が焚かれています。そのため会場はほんのりとスモ−キーでした。首を振る扇風機、エコーマシン、マイクスタンド、両サイド奥にかなり大きなギターアンプ、そして主を待つ座布団などが無雑作に置いてあります。もっとも目を奪われたのは、こういった小道具の間を縫うように敷かれていた大量のケーブルなのでした。本来隠すべき存在であると思い込んでいたので(私、几帳面です)その露わな存在感に奪われた目からはウロコまでもが落ちていったのです。時々「ビッ!」とか「ブォン!」といった具合に電子音が現われてはエコーを残しながら消えていくのですが、それだけでも充分に美しい電子音のたたずまいにうっとりしたものです。1月のコンサートであるにもかかわらず、能楽堂は暖房を抑えていて、会場は相当に寒かったことを覚えています。この「冷凍感」がコンサートの記憶を結晶化させる役割りになっているようです。

当時「現代音楽」とりわけ「電子音楽」なるものに強く惹かれていたのは、何といっても「電子音」そのものが好きだったからでしょう。その端緒にあるのはおそらく「鉄腕アトム」の音響の体験であると思われます。「音響 アオイスタジオ」というエンドクレジットとセットになって少年だった私に確実にヒットしたのです。この小杉のコンサートの体験が私の嗜好性に拍車を掛けた事は間違いありません。その「アトム」の音響制作に未だ学生だった頃の小杉が参加していたという事実は教場に足を踏み入れてから初めて知ったことなのですが、その時の私の目がどれくらい丸くなったかは推して知るべし、大変な大きさの丸であったことでしょう。教場で学ぶ以前に私は2回も小杉の手に掛かっていたというわけです。


アトム関連話(予定)につづく


20年くらい使用している半田ごて。15W,30W、60Wを使い分けます。ICなどには15W、トランジスタには30W、太い線材の場合は60Wという具合



必需品のテスター。
デジタルの方は主に導通チェック用に使います。導通していれば「ピー!」と鳴るので便利でやはり大変重宝。もっとも、それくらいにしか使いません。アナログテスターの方が機能は多彩なのです。



主に配線や調整用の小道具です。説明は省きますが、いろいろ必要になります。人によって小道具は変わります。



現地音収録用の録音機材。
BONSAIでは専らMD使用です。古いDATは信頼性がイマイチです。



20年ほど前に出たSONYのマトリクスステレオマイク。
ヘッドとコントローラ部が切り離せて使えます。100mくらいは伸ばせます。これも古いせいか、時々動作不良が起こります。そろそろリペアが必要でしょう。


半田ごてはこのような「こて台」に挿しておきます。便利で大変重宝。
半田はヤニ入り、スズ60%の線径1mmを愛用してます。左に写っているのはルーペで老眼(深刻な問題です)対策用の道具。



KORGの「KP2」です。PAD操作出来るシンセで有名。
EMSの「SYNTHI」の代わりに使おうかと目論で一年。使いこなしてないですがなかなか面白いです。


オシロスコープと「SYNTHI」の2ショットです。SYNTHIの内部は巨大な基盤が、3枚収まってました。これを外すと物凄い量の配線が詰まってます。
修理を試みましたが、恐れをなしてそのまま蓋をしめてしまいました。


◆ 私のパソコン歴◆

仕事のCG制作で使ってきたマシンが捨てられずにいましたが、
仕事部屋がいよいよ手狭になってきたので処分することにしました。
粗大ゴミで出すにはあまりにもったいないというか心苦しい、
そもそも粗大ごみでは出せません。なのでPCリサイクルに出すことに。

処分される前に生前の姿だけでも残しておこうとデジカメで記録。
ついでに御紹介しておこうかと。


■ 初代マシンの9801UV2とキーボード

86年。初代マシンは9801UV2です。CPUは8086。短命でした。CGでの使用期間は2年ほどでしょうか。引退後はデータベース制作やパソコン通信で活躍してくれました。



■ 二代目マシンSMC3000G

87年にやってきた二代目マシンSONYのSMC−3000Gです。
でかいマシンでした。しかも重い。これを担いで西に東に。
CPUはインテルの80286搭載。いわゆるDOS-Vマシン。IBMクローンとかも言われてました。ビデオエンコーダを内蔵してます。業務用のもので当時の私にとってそれは恐ろしい金額でした。初めてリース契約というものを経験しました。本来「テロッパー」として使用するのですがベーシック言語を用いて2次元、3次元のアニメーションが実現できました。4096色表示。7年ほど使いましたかな。その間まさに苦楽を共にしたマシンです。



■ 2台重ねたA3000

2年後にはA3000を2台使用してました。AMIGAはよく壊れるのですね。だからバックアップ用に用意したのです。これで2台の出力を合成すると32色に。うははは。



■ トースター4000ボード−1

AMIGA界で有名な「ビデオトースター」を導入。バンドルされた「ライトウェーブ3D」で三次元アニメーションへ突入です。業務用ベータカムデッキをリース契約。しばらくはコマ撮りで収録してました。



■ 9801UV2と5インチFdd

当時、5インチのフロッピーディスクドライブは必需品。



■ 3000GとUV2の大きさ比較

9801UV2と比べると随分大きい。キーボードだけで3kgあります。このキーボードはメカニカルスイッチ仕様の大変「打鍵感」の優れたものでした。



■ A3000の内部

内部はこんな感じ。FDDとハードディスクを外すとマザーボードに辿り着けます。左側3分の1はビデオエンコーダボードです。スロットを2つ占有するフルスケールのボードです。



■ SuperGENのアップ

2台目のAMIGAに接続していた「スーパージェンロック」。すごいネーミングですがスーパーに恥じない性能でした。



■ トースター4000ボード−2

大体内部のこの辺にトースターボードは収まってます。ギリギリ、ケースに収まりそうなのですが実はケースの上側にぶつかります。絶縁用のシートが付属してました。恐るべし!

■ 87年頃の仕事部屋

86年頃の仕事部屋はこんな雰囲気。アナログの写真です。



■ 3代目マシンのAMIGA A3000

91年に登場したAMIGA(アミーガ)A3000です。2000とか2500も候補に挙がったのですが3000という数字に惹かれてしまいました。CPUはモトローラの68030です、確か。



■ MAGNI-GENのコントローラ

こんな美しいコントローラが付属してました。使いやすかったなー。
「デラックスペイント4」というAMIGA定番のアニメーションソフトを使ってました。4096色中16色の表示です。スライダーでディゾルブが簡単に実現出来ました。これを利用してSONYのマシンで作った背景やアニメと合成したり。同期の取り方が分からないまま使ってましたから2台のマシンは「せーの!」で成り行き任せでした。「タメ」と「クイ」を駆使して不思議なくらい2台の歩調は上手く合うのでした。



■  95年頃の仕事部屋

95年の仕事部屋。AMIGAのレンダリング時間は気が遠くなるほど遅かったです。仕方なくDOS-Vマシンを導入しました。右下がそれ。DELLの完成品。CPUはPentiumの133Mhz。単体発売になった「ライトウェーブ4.0」をインストール。劇的な速度でした。
コマ撮り収録はデッキのヘッドに負担がかかるので、リアルタイムでビデオ出力の出来るボードを導入。ところが、このボードをDELLにインストールした途端にDELLのマザーボードが落ちました。(アナログ写真です)
■ 自作DOS-Vマシン第1号

慌てて友人から貸してもらったDOS-Vマシンがこれ。自作DOS-Vへの幕開けです。(アナログ写真です)

■ マザーボードと歴代CPU

自作DOS-Vに至ってからは、マシンの変遷はこの1枚で済んでしまいます。これまでの「外観」をともなう選択枝はほとんどなくなります。マザーボード(奥に写っている大きな基盤)と、搭載されるCPU(手前に並んだやつ)のみが選択のすべて。とってもドライな世界なのです。